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第3話 そのバッグ、制汗剤何本入ってるんだ?

ผู้เขียน: 常陸之介寛浩
last update วันที่เผยแพร่: 2026-09-05 11:34:01

第3話 そのバッグ、制汗剤何本入ってるんだ?

 その日の最後の講義が終わったのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。

 大学というところは、高校より自由なはずなのに、慣れないうちは妙に疲れる。授業ごとに教室が変わり、知らない教授の話を聞き、周囲には知らない人間ばかりいて、昼休みにはその人混みに揉まれる。俺の場合は、そこへさらに匂いまで加わるから、夕方になる頃には頭の奥が重くなっていた。

 できれば真っ直ぐ帰りたかった。

 ところが、図書館へ返さなければならない本があることを思い出した。

「最悪だな」

 自分の計画性のなさに悪態をつきながら、俺は中央棟から図書館へ向かった。

 春とはいえ、夕方の風は少し冷たい。昼間ほど人も多くなく、キャンパス全体がようやく静かになり始めている。俺にとってはこの時間帯のほうがずっと楽だった。

 図書館へ向かう途中、陸上競技場の横を通る。

 トラックではまだ何人かが走っていた。

 掛け声とスパイクの音が聞こえる。

 その中に、見覚えのあるポニーテールを見つけた。

 夏目陽菜だった。

 昼休みに会った時とは違い、今は紺色の練習着に着替えている。かなりの速度でトラックを走っていた。

 速い。

 昨日もそうだったが、改めて見るとかなり速い。

 俺には陸上競技の詳しいことは分からない。それでも、ただ趣味で走っている人間とは明らかにフォームが違うことくらいは分かった。

「ほんとに陸上部なんだな」

 誰に言うでもなく呟く。

 本人が陸上部だと言っていたのだから当たり前なのだが、普段あれだけよく喋る陽菜が、走っている時だけは別人みたいに真剣だった。

 妙に目を引いた。

 しばらく見てから、俺は我に返った。

 別に見学しに来たわけではない。

 図書館へ行こうと再び歩き始めた、その時だった。

「香坂くーん!」

 遠くから声がした。

 振り返る。

 練習を終えたらしい陽菜が、こちらへ向かって手を振っていた。

「何してるのー!」

「図書館!」

「聞こえなーい!」

「図書館!」

「待ってー!」

 待つ必要があるのか分からなかったが、あそこまで大声で呼び止められて無視するのも気まずい。

 数分後、陽菜がスポーツバッグを肩に掛けてこちらへ走ってきた。

「ごめん、待った?」

「待てって言ったのそっちだろ」

「そうだけど、一応聞くのが礼儀かなって」

「じゃあ待った」

「そこは『今来たところ』じゃないの?」

「何で恋人みたいな会話しなきゃいけないんだ」

「例えだよ。いちいち真面目に返さないで」

 陽菜はそう言いながら笑った。

 昼より少し顔が赤い。

 部活終わりだからだろう。

「練習終わったのか」

「今日は軽め。新入生だから、まだ先輩たちみたいなメニューには入ってないけどね」

「さっき結構走ってたぞ」

「見てたの?」

「たまたま通っただけ」

「ふうん」

「何だよ」

「別に」

 またこれだ。

「今日は逃げないんだな」

「朝のこと、まだ言う?」

「大学っぽいやつ」

「それもう忘れて!」

 陽菜が肩に掛けていたバッグを持ち直した。

 かなり大きい。

 昨日見た時も思ったが、陸上部だから荷物が多いのだろう。

「それ重くないのか」

「重いよ。でも着替えとかシューズとかタオルとかあるし」

「毎日それ?」

「部活の日はね」

「大変だな」

「慣れると平気」

 そう答えた直後、陽菜が小さく顔をしかめた。

「いたっ」

「どうした」

「肩に食い込んだだけ。大丈夫」

 バッグを反対の肩へ掛け替えようとした瞬間、ファスナーが少し開いた。

 そのまま中に詰め込まれていた物が一つ落ちる。

「あ」

 俺の足元へ転がってきたのは、小さなスプレー缶だった。

 拾い上げる。

「制汗剤?」

「返して」

「はい」

 手渡そうとしたその瞬間、バッグからもう一つ落ちた。

 さらにもう一つ。

「ちょっ、待って!」

「おい、開いてるぞ」

「分かってる!」

 陽菜が慌ててバッグを下ろす。

 ところが、今度は横のポケットからボディシートの袋まで滑り落ちた。

 二人でしゃがみ込んで拾う。

「何なんだ、このバッグ」

「言わないで」

「制汗剤、三本目だぞ」

「用途が違うの!」

「用途?」

「スプレーとロールオンとミスト」

「全部同じじゃないのか」

「違うってば」

「何が違うんだよ」

「使う場所とか、使うタイミングとか、香りとか」

 陽菜は俺からスプレー缶を奪うように受け取った。

 顔が少し赤くなっている。

「その顔やめて」

「どの顔」

「『何でこんなに持ってるんだ』って顔」

「実際そう思ってる」

「正直すぎるんだよ、香坂君は」

 俺も落ちていたボディシートを拾う。

 柑橘系。

 昨日感じた匂いと同じだった。

「これ昨日使ってたやつか」

 陽菜の動きが止まった。

「……分かるの?」

「匂い同じだから」

「そこまで覚えてるんだ」

「まあ」

 陽菜は一瞬だけこちらを見たあと、すぐに視線を逸らした。

「ほんと変な鼻」

「自覚ある」

「誉めてないからね」

「知ってる」

 落ちた物を全部バッグへ戻す。

 だが中をちらりと見ただけでも、まだ何本か制汗用品が入っている。

「何本あるんだ?」

「数えないで」

「五本?」

「だから数えないでって」

「いや、さすがに多くないか」

 陽菜はファスナーを閉めながら、小さく息を吐いた。

「分かってるよ」

 声が少し変わった。

 さっきまでの軽い調子ではない。

「自分でも多いって思ってる」

「なら減らせばいいだろ」

「それができたら苦労しないの」

「全部使うのか?」

「毎日全部じゃないよ」

「じゃあ何で持ち歩くんだ」

 聞いた瞬間、陽菜は黙った。

 また俺は踏み込みすぎたかもしれない。

 そう思ったが、陽菜は怒らなかった。

 代わりに、バッグの持ち手を指先でいじりながら答えた。

「持ってないと不安だから」

「不安?」

「うん」

 夕方の競技場から、まだ走っている学生たちの声が聞こえる。

 陽菜はそちらを見た。

「別にね、本当に臭いって言われ続けてたわけじゃないんだよ。高校の時に一回、男子に言われただけ。その後だって、友達は誰もそんなこと言わなかったし、家族にも気にしすぎって言われた」

「じゃあ、やっぱり気にしすぎなんじゃないのか」

「そういう言い方されると腹立つ」

「悪い」

「謝るの早いね」

「怒ってるの分かったから」

「そこは分かるんだ」

「匂い以外も少しは分かる」

「少しなんだ」

 陽菜は苦笑した。

「でも、本当にそうなの。気にしすぎなんだと思う。自分でも分かってる」

「だったら」

「分かってるのと、気にならなくなるのって別なんだよ」

 その言葉に、俺は口を閉じた。

 陽菜は続けた。

「一回でも言われるとさ、『本当はみんな思ってたけど、言わなかっただけなんじゃないか』って考えちゃうの。友達が何も言わないのも、気を遣ってるだけかもって思うし。近くにいた人がちょっと鼻を触っただけでも、自分のせいかなって思う時あるし」

「そこまで?」

「あるよ」

 少し強い口調だった。

 すぐに陽菜は困ったように笑う。

「あるんだよ、そういうの。自分でも面倒だなって思うけど」

 俺は何も言えなかった。

 気にしすぎだ、と言うのは簡単だ。

 でも、それで気にならなくなるなら、最初から本人も苦労していない。

 俺にも似たような経験がある。

 匂いについて不用意なことを言ったせいで、誰かを傷つけた。

 それ以来、何か言う前に考えるようになった。

 考えすぎて、そもそも人と関わらないほうが楽だと思うようになった。

 他人から見れば、そんなこといつまで気にしてるんだ、と言われる程度の出来事だ。

 それでも、自分の中では残る。

「昨日もね」

 陽菜が言った。

「香坂君が一歩下がった瞬間、本当に一瞬で昔のこと思い出した」

「ぶつかりそうだったからなのに」

「分かってる。でも、その時はそう思えなかった」

「面倒だな」

「でしょ?」

 俺が正直に言うと、陽菜はなぜか少し笑った。

「そこ、普通は『そんなことないよ』って言うところじゃない?」

「本人が面倒だって言ったんだろ」

「そうだけど」

「でも、面倒なのは夏目だけじゃないと思う」

「え?」

「人間って大体そんなもんだろ」

 陽菜がこちらを見る。

「急に哲学?」

「違う」

「それっぽかった」

「俺だって色々気にするし」

「香坂君が?」

「何だその意外そうな顔」

「だって、何も気にしなさそう」

「気にするから人付き合い苦手なんだよ」

 思わず言ってから、少し後悔した。

 陽菜が興味を持った顔をする。

「それ、どういう意味?」

「別に」

「さっき私には途中でやめるなって言ったよね」

「覚えてたのか」

「私は会話を覚えるタイプなんです」

「厄介だな」

「香坂君にだけは言われたくない」

 確かに、とまた思う。

「まあ、その話は今度な」

「絶対?」

「機会があれば」

「それ絶対話さない人の言い方じゃん」

「じゃあ、そのうち」

「約束ね」

「約束まではしてない」

「した」

「してない」

「したことにした」

「強引だな」

 陽菜は満足したように頷いた。

 それから、もう一度バッグを持ち上げる。

「よし。じゃあ私、着替えて帰る」

「今から?」

「部室戻って」

「また着替えるのか」

「汗かいたからね」

 言いながら、陽菜は少しだけ自分の腕を気にした。

 そして俺を見る。

「……今、やっぱりする?」

「何が」

「分かるでしょ」

「匂い?」

 陽菜が小さく頷いた。

「する」

「やっぱり」

 表情がまた少し曇る。

 俺は慌てて続けた。

「でも、昨日より変な匂いが多い」

「は?」

「その制汗剤」

「え」

「たぶん何種類か混ざってる」

 陽菜は自分の練習着を見下ろした。

「混ざってる?」

「柑橘と石鹸っぽいのと、少し甘い匂い。あと汗」

「それ、最悪じゃない?」

「俺にはそっちのほうがきつい」

 陽菜が目を丸くする。

「え?」

「制汗剤の匂いが強すぎる」

「汗より?」

「俺はな」

「嘘」

「何で嘘つくんだ」

「だって制汗剤って、汗の匂い消すために使うものじゃん」

「普通の人にはそうなんだろ。でも俺は鼻が利くから、香りが強いほうがしんどい時がある」

「じゃあ昨日は?」

「昨日も混ざってたけど、今日ほどじゃなかった」

「……つまり」

 陽菜が少し考える。

「使えば使うほど、香坂君には逆効果?」

「場合によっては」

「うそお……」

 本気で落ち込んだ声だった。

「何でそこまでショック受けるんだよ」

「だって、私これまで結構頑張ってきたのに」

「誰のために?」

「みんなのためだよ」

「俺だけ例外だと思えばいいだろ」

「それはそれで変じゃない?」

「知らん」

 陽菜は額に手を当てた。

「何か全部分からなくなってきた」

「大げさだな」

「香坂君が変なこと言うからでしょ。普通は汗臭いより制汗剤の香りのほうがいいじゃん」

「普通は、な」

「その『普通は』やめて。私まで普通じゃない側に引きずり込まれてる気がする」

「別に引きずってない」

「昨日から十分引きずられてるよ」

 言いながらも、陽菜は少し笑っていた。

「じゃあ、香坂君的には、何もつけないほうがいいってこと?」

「極端だな」

「だって気になるじゃん」

「自分が快適なようにすればいいだろ」

「でも」

「俺基準で決める必要ない」

「……そうなんだけど」

 陽菜はそこで言葉を止めた。

「何だよ」

「いや、何でもない」

「またそれか」

「これは言わない」

「何で」

「言ったら絶対からかわれるから」

「俺、そんなにからかってないだろ」

「千紗と一緒になって大学っぽいやつの話した」

「あれは面白かったから」

「ほら!」

 陽菜が睨む。

 それでも本気で怒ってはいなかった。

 数秒黙ったあと、ぽつりと言う。

「香坂君には、嫌われたくないだけ」

 俺は返事ができなかった。

 陽菜自身も、言ってから固まった。

「あ」

「……」

「違うよ?」

「何が」

「今の、そういう意味じゃないから」

「まだ何も言ってない」

「絶対変な意味に取ったでしょ」

「取ってない」

「本当に?」

「知り合ったばかりの相手に嫌われたくないって普通だろ」

「……そうそう。それ」

 陽菜は明らかに安心した顔をした。

 でも、すぐに少しだけ不満そうになる。

「何だよ」

「いや」

「だから何」

「香坂君、もうちょっと変に受け取ってもよかったんじゃない?」

「どっちなんだよ!」

 思わず声が大きくなった。

 陽菜が笑い出す。

「冗談、冗談」

「面倒くさいな、お前」

「さっき人間は大体面倒だって言ったの香坂君でしょ」

「都合よく使うなよ」

「いい言葉だったから」

「そんな立派なこと言った覚えない」

「私は結構好きだったよ」

 さらっと言われ、また返事に困る。

 陽菜は気づいていないのか、先に歩き出した。

「じゃあ、部室戻るね」

「おう」

「香坂君は図書館?」

「そう」

「また明日」

「明日も逃げるなよ」

「逃げないってば」

 数歩歩いたところで、陽菜が振り返った。

「ねえ、香坂君」

「何」

「さっきの話、本当にそのうち聞かせてね」

「何の話」

「人付き合い苦手になった理由」

「覚えてたか」

「言ったでしょ。会話は覚えるタイプなの」

「忘れていいことばっかり覚えるな」

「じゃあ、香坂君も私の匂い忘れてよ」

「それは難しい」

 考えるより先に答えていた。

 陽菜が止まる。

「……そういうことを真顔で言うから危ないんだよ」

「何が」

「何でもない。もういい」

 今度は本当に歩き出す。

 ただし、耳が赤かった。

 俺はその背中をしばらく見送った。

 やがて陽菜が部室棟の角を曲がり、見えなくなる。

 その瞬間になって、ようやく自分がかなり妙な会話をしていたことに気づいた。

「……何で俺、あいつ相手だと余計なことばっかり言うんだろうな」

 初対面に近い女の汗の匂いを好きだと言い、今日は忘れるのが難しいとまで言った。

 文字にすると完全に危険人物だ。

 それなのに、陽菜はもう逃げなかった。

 むしろ明日も普通に話すつもりらしい。

 そこが不思議だった。

 そして、少しだけ嬉しかった。

 図書館へ向かって歩き始める。

 途中でふと、さっき拾ったボディシートの匂いを思い出した。

 柑橘系。

 嫌いな香りではない。

 ただ、陽菜自身から感じる匂いを全部隠してしまうほど使う必要はないのに、と俺は思った。

 もちろん、それを決めるのは俺ではない。

 陽菜がどうしたいかだ。

 それでも、いつか本人が自分の匂いをそこまで嫌わなくなればいい。

 そんなことを考えている自分に気づいて、俺は少し驚いた。

 知り合ってまだ二日だ。

 なのに、どうしてそこまで気になるのか。

 答えは出なかった。

 ただ翌日、俺はその答えを考える暇もないほど面倒なことになる。

 夏目陽菜が昼休みに突然、俺の目の前へ三本の小さな瓶を並べて言ったからだ。

「香坂君。本当に鼻がいいなら、ちょっと試させて」

 どうやら昨日の話を聞いた陽菜は、俺の嗅覚そのものを疑い始めたらしい。

 そして俺はそこで、自分がこれまで人にはなるべく詳しく話さずにいた「鼻のこと」を、彼女へ説明する羽目になるのだった。

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